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語源でたどる「学校」に行く本当の目的

●「school」の原義は「余暇」

 「学校」を意味する英語「school」の原義は、ギリシア語の「余暇」を意味する「schore」に由来していると言われています。古代ギリシア・古代ローマの市民が、音楽、スポーツ、芝居、議論などを楽しむために過ごす、「暇つぶしのための時間や場所」を表す言葉でした。「学校」と「余暇」ではずいぶん意味が違います。

 この意味の違いを腑に落ちるように説明してくれたのは、意外にも日本の古典『徒然草』でした。卜部兼好もまた、「徒然」すなわち「独りで過ごす退屈な時間」を大切にすることで、人の世の無常と向き合って生きることができるのだと説いていたのです。

 要するに「余暇」を活かせということです。この一致は偶然とは思えません。

 ギリシア語の「schore」はその後、ラテン語で「schola(スコラ)」と訳され、「学院、僧院」を意味するようになります。その意味が通じるようになる中世ヨーロッパは当時、必ずしも学問の分野で世界をリードしていたとは言えない状態だったようです。少なくとも現在のヨーロッパとは違います。イスラム教の台頭もあり、キリスト教の正当性を示すためにも、神について考える合理的な枠組みが提案される必要に迫られていました。

 キリスト教の修道士はスコラを生活や研究の場として利用します。その中で、キリスト教思想にアリストテレス哲学を逆輸入して結びつけ、スコラ学を大成させたトマス・アクィナスも登場することになります。彼は西欧の中世封建社会における学問のスタイルを確固たるものにさせました。近世以降に目覚しく発展を遂げる西欧学問の礎はスコラあってこそのものです。

 「学校」に行くことが制度化された現代では、何のために「学校」に通うのかよくわからない過ごしてしまいがちですが、始まりは「余暇」を活かすヒトの意思が生んだもののようです。農耕技術が発展したのも、「余暇」を利用してのことでしょうか。「余暇」ありきの技術発展。技術発展ありきの「余暇」。どちらが先にせよ、「学校」は時間を有効活用するための場所ということになるのでしょうか。


●孟子が説く「学校」

 ちなみに、「学校」という言葉を最初に使ったのは孟子だと言われています。

 『孟子』の滕文公章句の一節に「学校」という言葉が出てきます。滕の文公が孟子に国の統治について尋ねると、詩経を例に、昔から良い君主は人民から税を取り過ぎず、下の者への礼節を心得ており、人々には安定した収入と道徳意識が行き届いていれば、国は治まるのだと説きました。
 そこで、過去の王朝(夏、殷、周)の税制を教訓として、庠序学校(しょうじょがっこう)をつくるよう勧めます。昔から、夏では「校」(子弟を教育すること)、殷では「序」(武人の礼を学ぶこと)、周では「庠」(老人を養う道を学ぶこと)があり、いずれも道徳を重んじてきたのだと孟子は言います。

 西欧でいう「学校」の原義から比べると、上からの意識が強かったように思えます。国家統治の手段としての教育という意味では、構造主義によって批判の対象となっている制度化された「学校」という装置を思い起こさせます。「学校」によって、自分が社会の一員として通用するようにつくり出されているかはわかりませんが、やはり、学ぶという行為は、社会や国家イデオロギーと深く関係していることは見落とせません。

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